〜 新時代への歩み 2000年に向けて 〜


1999年10月10日、1900年代最後の祭りが終わった。樫井東町の櫓は2代目にあたる櫓で、大改修しているとはいえ、1800年代の終わりに新調されたものです。

櫓にとってこの1900年代は、どんな時代だったのだろう。きっと後半部分はかなり苦しく、いやな時代だったと思う。ひどい扱いを受け、いい食い物にされ、本来の曳こうの仕方、本来の祭りの在り方を忘れた人々によって少なくとも、20年は苦しい時代を過ごしたに違いない。

台場(梶台の事)を激しく地面に落とし、四本柱を傷め、彫り物を飛ばし、屋根をゆがめてぐらぐらにしても一向に平気で、飾り付けも横柄な付け方で、提灯もやぶれ、尚且つ数が足らなくても修理や新調など考えもしない。そればかりか祭りが終われば私腹を肥やす為、【花】の勘定に大忙しといった時代でした。

しかしその時代もようやく、本当に終わりを告げたと私は思っている。ひとつは私と同じ意見に賛同してくれる若い人たちが出てきて、それにともない、櫓の曳き方も他町を見て勉強し、理想的な曳き方が近年出来ている事、そして私よりもっとすごく大きな考えを持った、年上の人達(若中会)が出て来てくれた事です。ちなみに、このH・Pの制作者も、この町を変えようとしている人達の一員です。

我々青年団という若い世代は、その若さゆえか、様々な物事に対して、すぐに結果を求めてしまう。だが、はやく答えが出る訳もなく、壁にあたって遂には挫折し、諦めてしまう。しかし我々の上部(若中)の人達は、新しい事を考えるのも早いし、それを行動に移すのも早い。ただ、すぐに結果を求めようとはしない。長いスパンで物事を見つめ、目標を決めて、その目標を達成するまで諦めず、がんばり続けるやり方です。

恥ずかしい話ですが、つい10年程前まで我々の町には、若中会という組織がなかった。他町では、在って当たり前のものがなかった。そんな中、これでは駄目だと言う人達が出て来てくれました。

しかし、他町では在って当たり前でも我々の町では、初めて出来たわけで、たとえ町で承認されて出来たとしても、当初はかなり批判も多く飛翔会(若中会の名称・通称)の本当の意味を理解できる、又しようとする人達も少なかった。かくゆう私もその中の一人だったのですが…。

しかし彼らは諦めなかった。そんな批判や、雑言の嵐の中、必死に耐え続け、遂には結成から数年で町を動かし、念願の献灯台も完成させてしまった。そして当初は批判的で、歩み寄ろうとしなかった青年団も飛翔会が描くビジョンが理解できるようになり、お互いが連携していい祭りが出来つつあります。そして次のステップとして、町内の祭礼委員会の発足です。

我々の町の祭礼は先にも書いたとおり、他町と比べて数十年の遅れをとっています。若中が無かったということも、しかりです。当然、祭りを運営する祭礼委員というものもないです。祭りの主催は青年団であり、町会は単に青年団のバックアップということで、現在まで祭りを行なって来ました。祭りの一切を青年団が任され、何もかも青年団がきりもりして来た訳です。だが、そのやり方では今の時代に通用するはずもないです。

泉南市以南では櫓ばかりだが、櫓の北限となる泉佐野市ではたった、2台しかない。同じ櫓ばかりの町が隣接していると、1町が何か新しい事や、新調でもすると、隣接の町は自分達も負けじと刺激をうけて、ウチの町もやろう!と言う事になります。それが、相乗効果を生んでどんどんと盛り上がり、発展してゆく。だが、我が樫井東町は、祭礼を始めた大昔から、たった1町だけで町内を練り歩くという祭礼のやりかたでした。その為、他町の祭礼に対する動きも目の当たりにすることなく、他町と競うという事がまったくなかった。それが、今日の樫井東町祭礼の行い方の遅れ、そして腐敗につながったと言っても、過言ではありません。

我々があらためて現在の祭礼のやり方では、まずいと感じさせられたのが、3年前から市内で毎年開催されているパレードである、ザ・まつり in Izumisanoへの出場です

他町はすべて組織化され町内での役割分担もきっちりと、なされています。 ですが我々の町は準備段階で、すでにつまずいていました。 ほとんどの仕事を青年団がきりもりする状態では、当然限界があります。 限界をこえればパンクし、破綻をきかす。 準備だけではない。曳こう時においても、町内がてんでバラバラで、まさに行き当たりバッタリの曳き方といった感じでした。 町内の中で1台のみの曳こうならまだしも、パレードと言う舞台では収拾がつかない。 この様な状態でよく無事に3回もパレードを終えられたのは奇跡に近いと言えるでしょう。もちろんそこには飛翔会の協力あっての事。
 そういう事を踏まえて、本祭りが終わったあとの町内の反省会で、飛翔会と協力して祭礼委員を創ることを提案しました。一応了承してもらったのですが、相変わらず町の反応はにぶく、どこまで我々の提案を理解してもらったのかは、疑問がのこります。しかし、一石は投じられた。これから、何度も会議を重ね、細部まで煮詰めて完全なものとし、他町より数十年の遅れを取ったが、その時間を何とか取り戻すべく、来年からは少しでも新しい祭りができたらと、思う次第です。