市内集落で氏神の例祭を中心に 10月9日、10日に行われる収穫感謝の祭り。10日の本宮には、日枝神社(ひえじんじゃ)に宮入します。
もともとは各集落とも独自の祭日に行われていましたが、祭礼の簡素化などの時代の要請があって市内全体がこの日に統一されています。 
樫井は、泉佐野市の南端、泉南市と田尻町の間に位置する人口500人 の町で熊野街道沿いに発展してきた小さな町です。 この地域は、
「大坂夏の陣」の合戦(樫井合戦)の舞台となった ことで知られています。 この戦いで倒れた豪傑武将「淡輪重政」「塙団右衛門」の墓があるのもこの町です。 また17世紀の住宅がそのまま保存され入り口を入ると籠が展示されています。  奥家の邸宅は大阪府の重要文化財の指定をうけているなど、歴史的に見所 の多い町として有名です。







 樫井東のやぐらの曳行の歴史も古く、熊野街道を優雅に練り歩き また、その起源は江戸時代にまでさかのぼります。 現在のやぐらは明治初期に新調されて以来、幾度となく大改修を重ねて現在の姿となりました。このやぐらは、やぐらの中では大きいほうで、心棒にいたるまで総けやき造りとなっています。 またベアリングやブレーキ等を一切用いていないなど、古くからの伝統を今なお受け継ぐ非常に珍しいやぐらとなっている。先代のやぐらは現在のものよりも大きかったが、老朽化のためこわれたが神社内の太鼓の大きさを見ればその大きさが推定できる。



昭和40年代の風景
 青年団はこのころ
 シャツにジーパン、スニーカーであった。
昭和54年頃
この頃から、パッチに地下足袋に変わる。
  なんとそっけなハッピなのだろうか

 

上記が初代のやぐらの太鼓 この太鼓の直径は120pもあった
平成8年に両面張り替え、撥は桐仕上げ(太鼓正)




日枝神社 (ひえじんじゃ) 祭神「猿田彦命」


樫井は、古来日根郡に属し、もともと籾井(もみい)と言われていた。 この村にはもみを浸す井戸があり 浸井(かすい)と名前を変えるが後に樫井村と称す。井戸の横に樫の木があることによって樫井と改められる。


 日枝神社は俗に山王あるいは山王権現と呼ばれ、比叡山日吉神社の山王権現信仰とのかかわりがあるといわれている。 中規模の一間社春日造で、様式、手法から見て江戸時代前期の建立とされて、市内で二番目に古い遺構でしたが老朽化の為平成2年に新築され、境内は227坪を有し本殿と拝殿を有し氏神は樫井西を除きます。 例祭は10月10日。



大阪夏の陣
 豊臣秀吉が再建した方広寺の釣鐘の銘文をきっかけに起こった大坂冬の陣につづき、1615年(元和元年)4月末から5月上旬にかけて大坂夏の陣の最初の合戦が行われた徳川軍と豊臣軍との合戦。 冬の陣では大坂城の外堀を埋めることで和解しましたが、これに不満を持つ豊臣方の武将と浪人は戦闘の準備を進めていました。 こうした動きに対して、4月23日京都に着いた家康が、秀頼に3か条の要求を突き付けたことがきっかけとなって、両軍が進軍を開始しました。


 徳川方紀州藩主浅野の軍が北上して佐野まで進出しましたが、作戦上安松、樫井まで退却し本陣を泉南市信達大苗代におきました。 4月29日早朝 大野治房の本陣を後方に置いたまま先駆けした豊臣方の武将塙団右衛門と岡部大学の一隊が浅野軍に突っ込み、昼下がりまで安松や樫井の町中、川原で激しい戦闘が行われました。 結果は作戦がまんまと当たった徳川方の圧勝で、塙団右衛門(ばんだんえもん)、淡輪六郎衛重政(たんのわろくろべえしげまさ)、坂田庄三郎などの名だたる武将が首をはねられ、徳川方の武将 亀田高網、上田宗箇らが戦功を上げました。 この勝利に士気をあげた徳川軍は5月に入って各地で勝利し、5月8日豊臣家はついに滅亡しました。 大坂夏の陣の戦闘は、古来亀田高網の覚書や難波戦記にくわしいことは知られていますが、戦闘の舞台となった地元長滝の古文書などによってもかなり知ることができます。 特に地元の住民が書いただけに合戦の当時、人々は野山に逃げ隠れて迷惑し、方々で家を焼かれて難儀したと記されている。 






淡輪六郎衛重政、塙団右衛門の墓
淡輪六郎衛重政の墓 淡輪六郎衛重政(?〜1615)
(たんのわ ろくろべえ)


泉州淡輪に住んでいた武将。 堺出身のキリシタン大名小西行長に使えていたとか、後に主家滅亡のため浪人となり大阪城に入る。 大坂夏の陣の樫井合戦に出陣し、塙団右衛門らとともに紀州浅野軍と交戦。目覚しい働きの末、討死したとの事。
塙団右衛門の墓 塙団右衛門(1567〜1615)
(ばん だんえもん)
 
豊臣の家臣 加藤に仕え、文禄・慶長の役、関が原の戦いで数々の功績をあげた武将。大坂夏の陣の樫井合戦で友軍の岡部大学と先陣を争い、浅野軍との戦いに敗れ討死しました。 樫井の熊野街道沿いには紀州藩主小笠原作右衛門が建て五輪塔があり、今も線香、花が絶えません。







奥家住
重要文化財奥家 熊野街道沿いに建てられた、1600年ごろ(慶長・元和のころ)のものとされる住宅。 時代とともに幾度の改・増築が行われていますが屋敷に入ると当時使われていた”籠”が展示されていてる。 はじめの部屋は4室が田の字に並び、奥の2室が大きくて食い違いになって土間につきだし、これにもう2室が加わった6室の建物だったと推定されています。 「食い違い」の4室を主体とした泉州地方の農家住宅としてはもっとも古いものです。 母屋(奥座敷を除く)のほか、長屋門・土蔵・土塀が国の重要文化財に指定されています。










熊野街道
別名を小栗街道【おぐりかいどう】といい 室町時代の説教節や、江戸時代の説教節や浄瑠璃によって人々のあいだで有名になった小栗判官と照手姫の恋物語。 その舞台となった熊野街道を小栗街道と呼び換えてしまったのだとの言い伝え。
京都府から和歌山県にいたる熊野三山への参詣道として発達した街道です。 泉佐野市内では貝田から田出、市場、安松、樫井を通って泉南市に抜けていきます。 人々の往来とともに整備されたこの街道沿いには、熊野権現の分身とされる熊野九十九王子が配されていました。 本市内にはそのうちの貝田王子、佐野王子、籾井王子(もみい)があったとされています。 狭く曲がりくねった道だったのが広くまっすぐに改修され以前の風景はほとんど残っていませんが、わずかに樫井付近に往時の面影がみられます。



籾井王子神社
熊野九十九王子社の中でも特別な和泉国五体王子のひとつです。 古い記録にもその名前はたびたび登場しています。 佐野王子を経た熊野詣の人々は当王子に参拝し、奉幣や里神楽などの奉納を行ったり、舞や相撲を披露したりしました。 1915(大正4)年に日枝神社に合祀されました。 その跡地である南中樫井の民家の庭には「籾井王子之跡」の石碑が建っています。 樫井の町名は籾井(もみい)からきています。