〜樫井東町祭礼の隆盛と腐敗その原因について〜 

【創世期】
樫井東町で現在曳こう中の『櫓』は言い伝えによると明治十年新調と聞く。今年(平成11年)で百二十五歳になる。『だんじり』と比べ新調周期が割り方早い櫓の中では異例といえる長寿であろう。樫井東の町の軒数は現在でも130軒。櫓、新調当時では80軒ほどしかなかったと思われる。そんな小さな町で、総ケヤキ造り、高さ4bの櫓を造ろうと思い、実現させた当事の町民の熱意には頭のさがる思いである。ちなみにH.Pにもあるとおり先代の櫓はさらに大きかったという。
当事は櫓のらんかんの内側に各組で選ばれた子供達を乗せ、各家々の前で櫓を止めて音頭を披露し、町内を練り歩くと言うような、のどかな村祭りだったと言う。
あるいは、これが本来の櫓の祭りだったのかもしれない。


【混迷期】
それから100年余り。町民も代わり、祭りも変わった。当事を知る人もいなくなり、何代にも受け継がれてきた櫓も現在に至るまでに扱いのひどい時代が長く続く。櫓の土台を地面に叩き落すという曳こうのやり方が、他町や他市で大流行し樫井東でもメチャクチャに地面に土台を落としてそのたび、ガッシャーン、ガッシャーンという櫓の悲鳴が鳴り響いた。大家根・小屋根とも落とすたび、ぐらぐら揺れ、屋根の下から出ている龍が毎年2〜3本は必ず折れていた。ただ、祭り自体は最高に盛り上がっていて、他町とケンカもあったがそれすら許されるほどの勢いであった。だが櫓の方は各部の損傷も激しく、彫り物は飛んでなくなり、四本柱は変形し屋根はいつもぐらぐらの状態になり、先人達から受け継いできた櫓は一気に老朽化してしまった。その後、数度の大改修を受けるが自分達の自己満足を優先して櫓の曳き方を変えなかった為、いくら修理をしても、すぐに元の状態に戻るという悪循環を何度も繰り返してきた。おまけに祭りをその年、その年の青年団が私物化し、本来、祭りの準備や櫓の修理の為の[花]を好き勝手に使用し、『祭りはオマケ、自分達のいいシノギ』という風に、いったい何の為に祭りをしているのか?と疑いたくなるような時代も長く続いた。それは現在でも悪しき習慣として一部残っている。だが、悪いのは当事の青年団だけではない。ハタチそこそこの若者に普段手にした事のない大金をまかせ、自分達が楽をしたいが為に祭りにたずさわらず、すべてを青年団にまかせっきりにしてきた町内会にも重大な責任があった事はまちがいない。


【転換期】
他町や他市では、徐々に櫓の曳き方もいい方に変化しはじめ、櫓を昔のように大事に受け継いでいこうという方向に動くようになっていく。町内も組織化が進み、一丸となって祭りに取り組んでいく様になっていった。そして折からの祭りブームに乗って、その動きは櫓の大修理や新調といったかなり大きな動きへとつながっていく。さらに、単なる村祭りではなく自分の住む市ともつながってもっと外へとアピール出来るような祭りへと発展していく。一番に名を上げるなら櫓でいえば阪南市あたりがその急先鋒といえるだろう。
そのころ我が樫井東町では、さしたる動きも見られず相変わらずのその場しのぎの村祭りを行っていた。当時の青年団役員の口癖に、『今年さえ上手く乗り切れば、自分の年さえ終われば後はどうなってもいい。』と言っているのをいやというほど耳にした時期があった。町内会も、青年団もみんな自分のことしか考えず、その年その年をまるで雑用でも押し付けられて、しかたなしに処理するという感じで祭りを行う様になっていた。だがやっと近年になり、いまここで変わらなければ、本当に祭りが終わってしまう、櫓もつぶれて何もかも無くなってしまうもう一度みんなで考え様じゃないか、と言う人達がたくさん出てきて、他町と比べ、かなりおくれをとったものの、ようやくいい方向へと軌道修正することができる様になってきた。町内も青年団も若中も活性化しはじめ、一人一人の意識も数年前とはくらべ様も無いほどに改革されつつある。もちろん他町とくらべるとまだまだ追いつけない部分も多々あるのだが。
それら活性化の動きとして、ザ・まつりin IZUMISANO への出場が挙げられる。少し前では考えられないことだ。
これからの我々が樫井東の祭礼の為にすべきことは、祭りに対して今年、来年という短いスパンで考えるのではなく、10年先、20年先の祭りを考えて町内の祭礼の体制創りを目指さなくてはならないだろう。